東山魁夷
生涯の大作
唐招提寺 御影堂障壁画
東山魁夷の長い画歴の中でも
唐招提寺御影堂の障壁画は、
作品の完成度はもとより、
制作に費やした年月、
大きさから言っても、
画家の最大の代表作であることに間違いない。
御影堂の五室六十八面の襖と床の壁面、
そして厨子内部の扉など、
全長八〇メートルを優に超える規模の
長大な作品である。
御影堂障壁画
御影堂の荘厳
鑑真和上と向き合った
一〇年の歳月
1970年暮れ、唐招提寺御影堂の障壁画制作を依頼された魁夷は、翌年6月6日の開山忌に鑑真和上像を拝し、この揮毫(きごう)を決意する。このときから第二規制作分を奉納する80年までの間、魁夷は和上ただ一人に向き合い、御影堂の荘厳に全精力を傾けた。制作は二期に分かれる。第一期は宸殿(しんでん)。上段の間で75年に奉納。第二期は厨子の配される松の間と、その両隣にある桜、梅の間である。魁夷は72年を海と山の取材にあて、《濤声》《山雲》を描く。そして76年から三度にわたって中国を取材し、《揚州薫風》《黄山暁雲》《桂林月宵》を水墨で描いた。厨子の内部には和上が日本へ降り立った鹿児島の秋目浦の風景が描かれた。この荘厳には、和上の魂に風景を捧げるというテーマが貫かれている
東山魁夷
唐招提寺への道
昭和46年6月6日、御影堂のお厨子の扉が開かれる日、私は唐招提寺を訪れた。自由な気持ちで自分の心を固めたい気持ちから、森本長老にも連絡をしないで、一般参詣者の一人として、鑑真和上の尊像を排した。—中略—
もし、一切を任せてくださるのなら、この仕事はお引受けすべきであると、私はようやく心に決めた。自信のない私に、このような勇気を与えてくれたのは、鑑真和上の強い精神力への讃仰の心からであり、また、御影堂のこの上ない環境の良さからでもあった。それが困難な仕事であっても、全力を挙げて着実に進めて行けば成就するであろうという、希望が次第に湧いて来るのを覚えた。
—東山魁夷『唐招提寺への道』
たとえこの障壁画は消滅しようとも
時は流れて障壁画もよごれ、きずついてくることは当然であります。時というものは最大の芸術家であります。
そしてこの「山雲濤声」が、あるいは百年、二百年ののちに、時の作用によって、よごれきずついた状態になりましても、おそらくいめよりも、深みとか、芸術的な高さというものは生じてくるとは思われるのですが、しかし絵画というものは、あの和上の御尊像のような乾漆の像とちがいまして、そんなに長く持つものではありません。おそらく四百年というような歳月がたてば、あるいは消滅するものとも思われまけれども、しかしそれは、もちろん私にとってしあわせであります。私は、ただひたすらに純粋な気持ちでお描きしたということが、いちばん大事なことである、と思うからであります。
—東山魁夷『日本の美を求めて』
東山魁夷筆 唐招提寺御影堂障壁画
第一期御影堂障壁画 昭和50年(1975)
濤声/宸殿の間 紙本彩色・襖16面
山雲/上段の間 紙本彩色・襖10面、床貼付
第二期御影堂障壁画 昭和55年(1980)
揚州薫風/松の間 紙本墨画・襖26面
桂林月宵/梅の間 紙本墨画・襖8面
黄山曉雲/桜の間 紙本墨画・襖8面
厨子絵 昭和56年(1981)
瑞光/厨子内 紙本彩色・3面